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大阪地方裁判所 平成7年(ワ)4594号 判決

原告

中村俊文

被告

西郷弘子

ほか一名

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告らは、原告に対し、各自二二〇〇万円及びこれに対する平成六年五月二三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、自動車を運転中の原告が、停止中に後方から進行してきた被告西郷弘子(以下「被告西郷」という。)が所有し、被告島崎文夫(以下「被告島崎」という。)が運転する自動車に追突され負傷したとして、被告島崎に対しては民法七〇九条に基づき、被告西郷に対しては自動車損害賠償保障法(以下「自賠法」という。)三条に基づき、それぞれ損害の賠償を求めた事案である。

一  争いのない事実等

1  被告島崎は、平成六年五月二三日午後五時三五分ころ、普通乗用自動車(なにわ五六み二四〇九、以下「被告車両」という。)を運転して大阪市阿倍野区文の里一丁目八番三〇号先道路を進行するにあたり、前方不注視の過失により、被告車両を進路前方で停止していた原告運転の普通乗用自動車(なにわ五五ゆ五二二五、以下「原告車両」という。)に衝突させ、原告車両をその前方で停止していた松根寛運転の普通乗用自動車に衝突させた(以下「本件事故」という。)。

2  被告西郷は、本件事故当時、被告車両を所有して自己のために運行の用に供していた。

3  原告は、平成六年八月三一日、被告らとの間で別紙記載のとおりの示談契約を締結した(以下「本件示談契約」という。)。

4  原告は、平成六年一二月一〇日、症状固定の診断を受け、その後自動車保険料率算定会調査事務所により自賠法施行令二条別表障害別等級表一二級所定の後遺障害が存するとの認定を受けた。

(以上については、1のうち、同日時・場所で原告車両と被告車両とが関与する事故があったことは当事者間に争いがなく、その余の事実は甲第一、第二号証及び弁論の全趣旨により認めることができる。2は当事者間に争いがない。3のうち、本件示談契約に別紙末尾の条項があることは甲第八号証により認められ、その余は当事者間に争いがない。4は甲第六号証の一、第九号証の二により認めることができる。)

二  争点

1  本件示談契約の有効性

原告は、本件示談契約は、原告が休業せざるをえなかったにもかかわらず、損害の一部についても補償が得られなかったためやむをえずされたものであり、また、原告は後遺障害については被害者請求するとの法的な意味の説明を受けていないから、本件示談契約は錯誤により無効であり、もしくは、原告の入院治療中症状固定前に締結されたものであり公序良俗に反し無効である、と主張する。

2  原告の損害

原告は、本件事故により次のとおりの損害を受けたと主張する。

(一) 治療費 三〇万円

(二) 入院雑費 三三万三〇〇〇円

(三) 通院交通費 一万六八〇〇円

(四) 休業損害 五九二万八一六九円

(五) 逸失利益 二六七五万六六四〇円

(六) 入通院慰藉料 二六五万円

(七) 後遺障害慰藉料 二四〇万円

(八) 弁護士費用 二〇〇万円

第三当裁判所の判断

一  甲第五号証の一ないし三、第六号証の一、二、第七号証の一、二、第八号証、第九号証の一、二、乙第一号証の一ないし三、九、一〇、一二、第二号証の一、五、第三号証の一、一一、一五、二九及び証人山内伸一の証言、原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実を認めることができる。

1  原告は、本件事故により救急車で医療法人相愛会相原第二病院(以下「相原第二病院」という。)に搬送され、後頸部痛、腰痛、左下腿外側、左手指のしびれがあり、頸椎捻挫、腰椎捻挫、右膝打撲と診断され、安静のため入院となった。

2  原告はその後しばしば腰痛を訴えるなどしたが、相原第二病院で平成六年五月二八日、同年六月三〇日にMRIの検査をしたところ、外傷によるものと認められる症状は全く見当たらず、原告の既往症である脊柱管狭窄症による症状であった。一方、同年七月ころまでには原告の頭痛の症状は改善し、同年八月一三日には全体的に改善傾向とされた。また、原告も、同年六月、七月は症状が悪かったが、同年八月にはこれと比べて症状が良くなっていると感じていた。

3  原告は、昭和五七年に第五腰椎すべり症のため大阪府立病院整形外科で第五腰椎、第一仙椎間の前方固定術を受けたことがあり、これにより第五腰椎、第一仙椎が骨癒合した状態であった。相原第二病院の原告の主治医であった山内伸一医師(以下「山内医師」という。)は、本件事故後の原告の症状について、原告が受けた前記手術の影響で第四、第五腰椎間の神経根症状が出現しており、本件事故により原告の症状が悪化したことは否定できないものの、原告の症状は原告の既往症である脊柱管狭窄症が悪化したもので、解剖学的に本件事故との関係に乏しいと判断し、本件事故に関しては頸部捻挫、腰部捻挫の傷病名で治療を続けていた。

4  本件事故当時被告西郷が被告車両について自動車保険契約を締結していた保険会社の担当者(以下、単に「保険会社の担当者」という。)が平成六年八月二日、山内医師と面談したところ、患者である原告が痛みを訴える以上医師としては原告を退院させることはできないが、原告と損害賠償に関する話はしてもらってもよい時期であるとの説明を受けた。なお、原告は、本件事故当時北青果株式会社に勤務し、一か月当たり四二万円の収入があったが、本件事故後の休業期間中に同社から同年六、七月分の給与の支払を受けていたことから、保険会社の担当者は、同月二三日、原告の休業損害に対する補償として、八四万円を同社に支払った。

5  保険会社の担当者は、平成六年八月三一日、原告に対し、本件事故により原告に対して支払われるべき損害賠償金として、給料分四二万円を三か月分として合計一二六万円、夏の賞与分として四五万円、入院費を一日四〇〇〇円で一〇〇日分で四〇万円との計算を説明し、これより前記の北青果株式会社に支払った分を控除して、残額一二〇万円を休業損害及び慰藉料として支払うとの案を原告に提示し、原告はこれを受け入れ、同日、原告は、保険会社の担当者を通じて、被告らとの間で本件示談契約を締結した。このとき、保険会社の担当者は、示談後の治療費については健康保険を使えるよう手続をし、原告の一割負担で治療が受けられることを説明し、原告はこれを了承した。また、保険会社の担当者は、原告に対し、将来原告に後遺障害が残った場合には、自動車損害賠償責任保険(以下「自賠責保険」という。)から保険金の支払を受けることができるので、事故後六か月を経過してから医師の診断書を提出して請求するよう説明した。

なお、その後、原告は、本件示談によれば、原告に支払われる金銭は一二〇万円とされているが、前記保険会社の担当者の説明に基づいて計算すると、実際には一二七万円となるべきであることに気づき、その旨保険会社の担当者に連絡したところ、保険会社の担当者は、同年九月二〇日原告に対し七万円を追加して支払った。

6  山内医師は、平成六年八月三一日までは、原告が交通事故による受傷に対する治療を受けている立場にあったことから、原告の既往症である脊柱管狭窄症のための治療を交通事故によるものとして行うことは無理であると考え、脊柱管狭窄症を診断名にあげることもなく、そのための積極的な治療もしなかったが、本件示談契約が締結され、原告が健康保険によって治療を受けることとなったことから、右のような制約を受けることなく原告のために適切な治療を行うことができるようになったと考えた。そして、同年九月二七日には、原告の第二、第三腰椎間、第四、第五腰椎間で脊柱管狭窄が認められたため、とりあえず保存的療法で様子を見ることとしたが、結局、原告の症状の緩和のためには原告の第四腰椎椎弓切除術を行う必要があると判断し、原告及びその妻に説明したうえ、同年一一月九日に第四腰椎椎弓切除術が施行された。右手術後は、原告の第四、第五腰椎間の神経根症状は消失し、その後、原告は同年一二月一〇日左下肢の筋力低下、疼痛、痺れを残して症状固定の診断を受け、同月三〇日相原第二病院を退院するに至った。

7  原告は、その後、保険会社の担当者に説明を受け、レントゲンフィルムの取り寄せを手伝ってもらうなどしながら、自賠責保険に被害者請求の手続をしたところ、自動車保険料率算定会調査事務所により前記第二の一4のとおりの後遺障害が存するとの認定を受け、平成七年四月一三日、自賠責保険から二二四万円の保険金の支払を受けた。

二  本件示談契約には「将来、原告に後遺障害が発生したときは、医師の診断に基づき、被告らの自賠責へ被害者直接請求することとする。」との条項及び「今後本件に関しては双方とも裁判上または裁判外において一切異議、請求の申し立をしないことを誓約致します。」との条項がある以上、本件示談契約の締結により、原告と被告らとの間では本件事故に基づく損害賠償をめぐる権利義務関係はすべて確定したこととなり、その結果、本件示談契約締結後に原告に本件事故に基づく後遺障害が発生しても、原告において自賠責保険に保険金の請求をすることで解決すべきものであり、改めて原告が被告らに対して損害賠償請求をすることができないのは明白であるというべきである。この点について、原告は、本件示談契約締結当時、保険会社の担当者からは、自賠責保険の限度額以上の金額は請求できないなどという説明はなく、原告の認識では自賠責保険で足りない分は任意保険から支払われるものと思っていたと供述するが、しかし、一方で、原告は、示談をするということはそこで決着するということであり、内払の合意でないことはだいたいわかっていたとも供述しており、前記のとおり、原告が、保険会社の担当者に対して本件示談契約締結後に七万円が不足しているとしてその追加支払を請求していること、その後、保険会社の担当者の助力を得て自賠責保険に対し被害者請求の手続をしたことに照らしても、原告は本件示談契約の趣旨をよく理解したうえで、本件示談契約を締結したものと認めるのが相当であり、本件示談契約は錯誤により無効であるとの原告の主張は採用できない。

なお、本件示談契約は、原告の症状固定より前に締結されたものであるが、平成六年九月一日以降の相原第二病院における治療は、原告の既往症である腰部脊柱管狭窄症に対して行われたものであり、本件事故によって直接生じたと認められる頸椎捻挫等の症状については本件示談契約が締結された同年八月三一日には既に症状が固定していたものと認められるうえ、本件示談契約が、被告らが同日までの原告の治療費、休業損害については全額これを支払うとの趣旨のものであることに照らせば、原告が主張するように、本件示談契約は、原告が休業せざるをえなかったにもかかわらず、損害の一部についても補償が得られなかったためやむをえずされたものであるということはできないし、原告の入院治療中症状固定前に締結されたことのみをもって公序良俗に反するとすることもできない。かえって、自動車保険料率算定会によって認定された原告の前記後遺障害は、原告の既往症である腰部脊柱管狭窄症に起因するものであると認められるところ、原告の後遺障害の発生には原告の既存障害が相当程度寄与していることは明かであり、原告に生じた損害額を算定するにあたっても右事実が考慮されるべきであるのに、原告は、自賠責保険から保険限度額である二二四万円の支払を受けていること、更に、本件示談契約締結後に原告に予想外の後遺障害が発生したという事情も見当たらないことに照らしても、本件示談契約を錯誤により無効であるとし、あるいは、公序良俗に反し無効であるとすべき理由はないというべきである。

三  以上によれば、本件示談契約の締結により、原告と被告らとの間では本件事故に基づく損害賠償をめぐる権利義務関係はすべて確定しており、原告は、もはや、本件事故を原因として被告らに対して損害賠償の請求をすることはできないというべきである。

よって、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求はすべて理由がないからいずれも棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 濱口浩)

別紙 示談内容

(一) 被告らは、原告の平成六年八月三一日までの治療費を支払う。

(二) 被告らは、原告に対し、本件事故の損害賠償金として一二〇万円を支払う。

(三) 将来、原告に後遺障害が発生したときは、医師の診断に基づき、被告らの自賠責へ被害者直接請求することとする。

以上

上記のとおり示談が成立しましたので、今後本件に関しては双方とも裁判上または裁判外において一切異議、請求の申し立をしないことを誓約致します。

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